2009年7月24日金曜日

棚田、アルミ缶回収のポスター作り、誕生会♪

こどものじゃんぐるの地元での活動をする子どもたちは20年ほど前は30人くらいいましたが、今は減って、中学生4人(引っ越しでまた2人減ってしまいます)と高校生1人となり、風前のともしびです。
でもその分、子どもたちととても濃い時間を過ごさせてもらっています。
この間は、私が借りている棚田の田んぼのロウソクでのライトアップを見に行き、また翌々日にはアルミ缶回収協力お願いのポスターを作ったり、お誕生日のお祝いをしてみんなで楽しい時間を過ごしました。

田んぼにあかりが灯ってきれいでした。(すずか)

一美さんが作ってくれたタルトがすっごく美味しかったです。(はるか)

1000本のロウソクの灯りは圧巻でした。虫の音、田んぼの匂い、さわやかな風、棚田の景色、次世代まで残ってほしいと思います。(柿沼母)






城殿さんのマナグア通信 ハリケーン・フェリックスの被災地を訪ねて

 JICAの長期専門家としてニカラグアに来る前の2007年8月~9月にかけて、私はコスタリカにいた。前半はコスタリカの国立公園の日(8月24日)に招かれてグアナカステ保全地域内のサンタ・ローサ国立公園に友人として滞在していた。国立公園の日は毎年国内の国立公園を舞台に、大統領はじめ政府要人や保護区関係者が集まり盛大に開かれるセレモニーだ。INBioにいた頃、パラタクソノモのコーディネーターだったアレハンドロが主催者側の責任者を務めている光景を見て感無量だった。本番の24日までの1週間様々な催しが開かれた。見覚えのある顔ぶれがそれぞれの強みをもつテーマで講演した。グアナカステ保全地域がコスタリカで3番目の世界自然遺産ということもあり、ユネスコの世界遺産委員会の幹部の姿もあった。その後、サンホセに移動し、JICAの調査団に合流。連日ものすごい豪雨が続いていた。9月1日早朝にハリケーン・フェリックスが隣国ニカラグア北部のプエルト・カベッサス地方を直撃し、沿岸部で漁をしていた多くの漁民が命を落としたり、建造物に大きな被害が出たことを現地のマスコミが大きく報道していた。

 同じ年の10月15日にニカラグアの首都マナグアの土を踏んだ。そして、12月1日に初めて空路でハリケーン・フェリックスの被災地プエルト・カベッサス市を訪問した。この時は30人ほどの乗客が乗れる機種だったが、2回目の訪問以降は現地の空港が拡張工事中のため、離着陸に必要な滑走路が短くて済む代わりに収容人員が最高14人の小型セスナ機。ちょっとした悪天候でも恐ろしく揺れる。ある時など積乱雲の中を飛行した際には、真剣に墜落するのではないかと不安になった。マナグアから陸路で行けないことはないが中央の山地を過ぎると湿地帯続きで、雨季などには熟練運転手が四駆車を繰っても途中でトラブルにある。おまけに追いはぎ常襲地帯もあちこちにあるので、いまだ当局からは通過許可が出ない。  
 初めてのプエルト・カベッサス訪問は、1泊2日の駆け足出張。この時は行動範囲が市街地中心だったので、ハリケーンの被害の甚大さを熟知するには至らなかったが、それでも1日かけて100キロほど離れた先住民コミュニティー(ニカラグアのカリブ海側は南北の先住民自治領になっており、北部の中心都市がプエルト・カベッサス市である)の一つを訪問する途中目にした光景はハリケーンのすざましさを知るには十分だった。高床式の家屋の屋根はほとんど吹き飛ばされ、援助機関が供与したビニール・シートで一時しのぎしていた。森林でおおわれていた地域もほとんど全ての立木がなぎ倒され、景観が一変していた。

 その後、プエルト・カベッサス市にはほとんど毎月のように出向いている。5月中旬に世界銀行のスタッフ・日本大使館員と一緒に自治領政府を訪ねた時には、同時にハリケーンの被害を受けた内陸地と沿岸部を2日間昼食抜きで飛び回るといった経験をした。初日に自治領政庁で会議を重ねた後、合間を縫って内陸部の森林地帯に隣接する先住民コミュニティーを、自治領の開発委員会の幹部の皆さんの案内で訪問した。北部自治領はミスキート語の世界なので彼らが通訳も兼ねてくれた。森林地帯のコミュニティーは伝統的に焼畑耕作を主体とした自給生活をしてきた。現金収入として木材を市街地へ搬出してコミュニティーを支えてきたが、ハリケーン・フェリックスの襲来でほとんどの立木が倒れてしまった。自治領政府は、この一帯のコミュニティーの生活をなぎ倒された樹木を利用した林産加工で短期的な生計の立て直しに利用し、長期的にはその跡地に植林をして継続的な木材の供給を図ろうとしているようだ。コミュニティーがこれまでに経験したことがない事態なだけに、打開策はいまだ手探りの状態だ。
 2日目は早朝から北部の沿岸漁業で生計を立てていたコミュニティーを訪問し、臨時の住民集会をあちこちで経験した。プエルト・カベッサスの市街地から未舗装の道を30キロほどすっ飛ばすと、ラグーン(Laguna Pahra)の一角の寒村に到着。ここから船外機付きの小型船で波を蹴立てて走ること約40分で、目的のコミュニティー(Pahra)の船着き場に着く。ここまでたどってきたルートがまさしくハリケーン・フェリックスが通過したのと同じコースだという。小舟が出発した地点から何種類かで構成されるマングローブ帯が続いていたが、2年近くたった今でもまるで屍のように立ち枯れた樹木がいつまでも続いていた。水面近くの丈の短いマングローブがハリケーンの被害から立ち直りつつあるのと対照的な光景だ。対岸が見えないくらい広い水面の左手に小さな島があった。コミュニティーの漁民たちはこの小島に上陸してはこの水域に多いカメを捕えて、近くのコミュニティーやプエルト・カベッサスの市場で売っているという。とっている漁民自身も日常食はこのカメを中心としたメニューだと聞いた。
 住民集会が開かれた場所は船着き場から2キロほど内陸にあった。雨が多い時期には水没すると思われる湿地帯の中に一直線で細い歩道用に土がかさ上げされて、通行がしやすくしてある。沿道の所々の水際には日本の石垣島で見かけたヒメヒルギ類のマングローブも散見された。高床式の家屋が散らばった一帯の中心に会場となった多目的ホールのほか墓地や教会があった。ハリケーンで倒された巨木もそのまま放置されていた。建造中に被害に遭った教会は廃墟の態を呈しており、隣接地にビニール・シートを覆って仮設の教会が機能していた。このコミュニティーには復興援助はまだ届いていない印象を受けた。船着き場に到着する前に目にした光景は、風景画を思わせるのどかな漁村をイメージさせたが、上陸してみるとハリケーンが残した傷跡がまざまざと見せつけられた。住民集会では、ハリケーンで漁に出ていたご主人を亡くした母子家庭がやたら多いこと、住民の足だった船や漁具をすべて失ったことでコミュニティーの経済システムが崩壊し、孤立化を強めていることなど、突然の訪問者の目には見えない窮状が明らかになった。しかし、子どもたちの表情がコミュニティーが直面する困難に似つかわしくないほど明るいことで救われた。

 だいぶ前に友人からこの一帯の漁村で筑波大大学院生がカメと住民の生活をテーマにフィールド・ワークを行っていることを聞いた。その後、マナグアで本人ともお会いし、話を聞いているうちに、その場所がこのコミュニティーであることを知った。なんでも毎日カメの肉と酒ばかりの生活を強いられているとか。想像するに、大変な生活だと思うが、住民たちに受け入れてもらうためにはまずはそれが一番なのだという。本人は現在一時帰国中と聞いたが、また調査を再開するという。プエルト・カベッサスを訪れる楽しみが増えたような気がする(完)。
こどものじゃんぐるサポーター 城(き)殿(どの) 博(ひろし)(ニカラグア・マナグア在住)